ついに、大阪湾の埋め立て地・夢洲で、4月13日から『大阪・関西万博(EXPO2025)』が開催された。
初日はあいにくの雨で、予定されていたブルーインパルスの飛行も中止になるなか、ネットには参加者の憤りの声があふれた。
《目玉の大屋根リングは雨風が吹き込んで、屋根の役目を果たさなかった。お陰でずぶ濡れに》
《トイレがずっと故障中》
《『究極の駅そば』を頼んだら、3850円もするのにお茶碗サイズの丼だった》
《万博会場で一番長い列ができていたのは、パビリオンではなくて出口へ向かう列》
などなど、まさに地獄絵図のような状況が伝わってくるものばかりだった。
そんなダメダメなニュースばかりが聞こえる大阪・関西万博だが、55年前の万博の来場者にはどのような思い出が残っているのだろうか。
1970年3月15日、「人類の進歩と調和」をテーマに、日本で初めて開かれた日本万国博覧会には、183日間で約6400万人が押し寄せた。
「特に閉会式間際の土曜日(9月5日)は、一日の入場者数が約83万人と、それまでの万博の世界記録を塗り替えました。その翌日には一時、入場ストップ、さらには万博会場行きの鉄道の乗車券が発売中止になるほどの騒ぎでした」(当時の万博関係者)
まさに、世紀の祭典となったのだ。
会場内では、アポロ12号が持ち帰った月の石見たさにアメリカ館へ、また、ソユーズ宇宙船を目当てにソ連館へ、高度経済成長期のニッポンの老若男女が胸躍らせ、連日、3〜4時間待ちの列ができていた。