■中学生時代に「計8回万博に通った」ラサール石井氏も興奮気味に語る
当時11歳で、会場(大阪府吹田市)の近くに住んでいたシンガーソングライターの嘉門タツオ氏は自転車で30分、バスで10分の現地に建設中から通い、開催中も21回、入場したという。
「アメリカ館で月の石を初めて見た正直な感想は、“な〜んだ、普通の石だ”。それより、月面着陸船の実物や、人類が月面に残した足跡の模型などの展示を見て、〝やがて人類が月に住む時代が来る〟と、妄想が膨らみましたね」
民間のパビリオンで印象深かったのは三菱未来館。
「まず驚いたのが長〜い動く歩道。それに乗って180度の天井スクリーンをくぐり抜けるんです。映像は、台風を人工的に消滅させるようなストーリーだったかな」(前同)
この三菱未来館とともに連日、長蛇の列ができていたのが日立グループ館。
「SF映画の円盤のようなデザインの建物で、内部には流線形のライトやオブジェがあり、まるで宇宙船でした」(同)
『こちら歴史探偵事務所! 史実調査うけたまわります』(五月書房)などの著者で知られる歴史研究家・跡部蛮氏(当時10歳)は閉会式の後、“万博ロス”のため、「しばらく食事も喉を通らなかった」として、こう続ける。
「やはり、日立グループ館には何回も通ったクチです。長さ40メートルの継ぎ目なし屋外型エスカレーターで、“宇宙船”に乗り込むんです。今でこそ、空飛ぶ車が実用段階まできましたが、当時は思い描く未来と現実のギャップが、はるかに大きい時代でしたから、その長いエスカレーターそのものが未来でした」
月面生活や台風のコントロールは今もまだ夢物語だが、動く歩道は万博を機に一気に普及したのは、ご承知の通りだ。
当時、中学生時代に計8回も万博に通ったラサール石井氏も興奮気味に語る。
「電気通信館には“未来の電話”と称した携帯無線電話で自由に通話できるコーナーがありました。数十年後、実際に携帯電話を手にしたとき、“70年万博にあった未来の電話が、ついに現実になったんだ!”って、大感動しましたね。昔と今がつながった瞬間でした」
万博のテーマ通り、人類は大きな「進歩」を成し遂げたのだ。
かように、大阪の千里丘陵に忽然と未来から個性的な建物群(パビリオン)が舞い降りた印象の会場内でも、その凛々しさで圧倒的な存在感を示したのが太陽の塔だった。
「入場すると、真っ先に目に飛び込んでくるんです。屋根から塔が突き出て、“なんじゃ、こりゃ!”って。
詳しくは知りませんが、“太陽の塔を小さくしろ”、“いやいや、屋根をどけろよ”みたいに、制作者同士の衝突があって、あの屋根から突き出たデザインになったそうです。太陽の塔を見て、これから日本は、どんどん変わると予感させられました」(前同)
今年の万博も、来場者の心に残る思い出になればいいが──。
ラサール石井
らさーるいしい 1955年、大阪府出身。お笑いタレント、俳優、演出家、コラムニスト。1977年から渡辺正行、小宮孝泰と『コント赤信号』として活動。現在はさまざまな分野で活動している。
嘉門タツオ
かもんたつお 1959年、大阪府出身。1981年より音楽活動を開始。コミックソングや替え歌でお茶の間の人気者に。2017年、芸名を嘉門達夫から現在のものに改名。