■宿老としてのおごり

 時は天正元年(1573年)8月。浅井長政の居城・小谷城(滋賀県長浜市)は落城目前だった。

 その援軍に領国越前から駆けつけて来た朝倉義景が退却すると読んだ信長は、小谷城を包囲していた兵を割き、秀吉や信盛らの諸将に朝倉勢殲滅のため追撃を命じる。信長の読み通り、小谷城の北、北国脇往還の宿場・木之本に陣していた朝倉勢は撤兵を始めた。

『信長公記』によると、信長は「この機会を逃してはならぬ。決して油断するな」と何度も触れを回していたものの、諸将は油断してしまったのだろう。追撃が遅れてしまった。

 本陣にいた信長は、諸将のあとに続く形で馬廻り衆を率いて逃げる朝倉勢を追走しているとばかり思っていたのだろう。遅れをとった諸将がようやく追いついて来たのを見て、彼らの怠慢を非難する。

 秀吉らの諸将が「面目ない次第」と謹んで詫びを申し入れるなか、信盛だけが「そうは申されましても、われらほどの家臣がおりましょうや」と、ただ一人、言い訳を始めたのだ。

 それを聞いた信長は「そのほうは、おのれの能力をさほどにひけらかしたいのか。何をもってそのように申すか。片腹痛いかぎりじゃ!」と激怒。信盛に、常日頃より奮励努力して死に物狂いで信長に尽くしてきたという自負があったのだとしても、信長には宿老としてのおごりとしか思えなかったのだろう。

 その後、追いついた織田勢は、その勢いのまま越前へ乱入し、義景を自害に追いこんだものの、当時はまだ「天下布武」の道半ば。信長はおごれる宿将への怒りを抑えこみ、宿敵の本願寺との和睦もなった。

 ほぼ目的を達しようという段になり、ここまでに溜まりに溜まった信盛への怒りを爆発させたのではなかろうか。ちなみに、このころから信長の専制化が顕著になり、本能寺の変へとつながっていくのである。

跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。