教科書には載っていない“本当の歴史”──歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!

 天正11年(1583年)4月、羽柴(豊臣)秀吉と柴田勝家の織田家宿老同士が賤ヶ岳(しずがたけ)(滋賀県長浜市)付近で戦い、その勝利によって織田家中での秀吉の覇権が確定。天下統一事業は大きく前進した。この重要な合戦で兄の名補佐役といわれる秀長が失態を犯していたという。

 まず江戸時代の逸話集『老人雑話』によると、秀吉が柴田方の織田信孝(信長三男で岐阜城主)の動きに対応するため、最前線の賤ヶ岳付近の守りを秀長に託して、いったん岐阜へ向かい、大返しで勝利するものの、留守を預かった秀長が柴田勢の猛攻を受けて配下の中川清秀を見殺しにしてしまうというもの。

 このとき秀吉は諸将の前で怒り「おぬしとわしでは種が違うのでこういう結果になったのだ」と罵倒したという。「豊臣兄弟」は種違い、つまり、異父同母の兄弟だったことを前提にした話で、最近の解釈では父を同じくする兄弟としているため、秀吉が諸将の前で秀長を罵倒したという話は史実とは認められていない。

 しかし、秀吉が秀長を罵倒したかどうかはともかく、この名補佐役とされる弟が失態を犯したのは事実のようだ。順序だてて説明しよう。