教科書には載っていない“本当の歴史”──歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!

 江戸時代初めの著名な軍学者にして儒学者。その山鹿素行(やまがそこう)は代表的な著書『中朝事実』で、皇統(天皇家)が絶えることなく続いた日本は「智・仁・勇」において中国よりも優れた国であると説き、中華(世界の中心で最も偉大な国)を自称する中国より、日本こそがその名にふさわしいと主張した理論家だ。

 彼はまた生涯、2回にわたって赤穂(あこう)藩に滞在し、のちの赤穂浪士らの討ち入りに大きな影響を与えた人物とされる。しかし、素行には意外な人物と交流する一面があった。

 まず、簡単に生い立ちを振り返ってみよう。伯耆(ほうき)黒坂藩主・関一政に仕えた素行の父は同輩を殺して出奔。伝手を頼って会津若松に住み、素行はそこで生まれた。素行が6歳のときに父が江戸に移住して開業医となった後、儒学を林羅山(らざん)、軍学を北条氏長ら一流の師について学ぶ。

 やがてその秀才ぶりが世に知れ渡り、大名・旗本らが彼の門人やスポンサーになってゆく。その中の一人に初代赤穂藩主の浅野長直がいた。江戸城松の廊下事件で吉良上野介義央(よしひさ)に斬りつけ、討ち入りの原因をつくった内匠頭長矩(ながのり)の祖父にあたる。

 その関係で素行は承応2年(1653年)8月、32歳のときに江戸をたって赤穂へ行き、翌年の5月まで滞在。その間、赤穂城の縄張りを改め直し、後に討ち入りの中心人物となる大石内蔵助良雄の祖父良欽(よしたか)と懇意になった。