■仇と交友のあった歴史の皮肉

 2回目の赤穂行きは45歳のとき。ただし、著書の『聖教要録』で幕府の官学だった朱子学を批判した罪で配流された地が赤穂だったのである。通説では「内蔵助が素行について学び、討ち入りの際にことごとくその法を用いた」とされているが、当時、内蔵助は数え年8歳。素行について軍学を修めたかどうか怪しい。

 事実、素行の日記(『年譜』)に内蔵助は登場してこない。素行は内蔵助の祖父と懇意だったのだから、接点がまるでなかったとはいわないが、内蔵助が素行の軍学を参考にしたとしても、それはその著書を通じてであって直伝ではなかったはず。

 ところで、素行の流罪は朱子学の信奉者である保科正之(会津藩主)の逆鱗(げきりん)に触れたためとされ、その正之の死後、延宝3年(1675年)に赦免され、赤穂をたって江戸へ向かった。その道中のこと。

 東海道丸子(まりこ)宿(静岡市)で意外な人物と同宿したことが『年譜』に記されている。吉良上野介その人だ。川止めのための偶然ともいえるが、その5年後の『年譜』にも、京から来た公卿(くげ)を迎える上使としてわざわざ上野介の名を記載している。何らかの交流があったのはたしかだろう。

 内蔵助が討ち入りの際に、その軍学を参考にしたという素行が、その仇(かたき)と交友のあったことは歴史の皮肉といえよう。

跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960 年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『超新説で読みとく 信長・秀吉・家康の真実』(ビジネス社)。