教科書には載っていない“本当の歴史”──歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!
当時まだ10代前半の少年だった伊東マンショ・千々石(ちぢわ)ミゲル・原マルチノ・中浦ジュリアン(カタカナはいずれも洗礼名)の4名は天正10年(1582年)、ローマ教皇に謁見するためヨーロッパへ派遣された。
彼らは異国の地で歓待され、天正18年(1590年)に帰国したものの、江戸時代のキリシタン弾圧によって不遇な生涯を送ることになる。
キリスト教の布教に努めて慶長17年(1612年)に長崎で病死したマンショはまだしも、マルチノは2年後にマカオへ追放され、現地で死去。ジュリアンは幕府のキリシタン弾圧が厳しくなった寛永9年(1632年)に小倉で捕らえられ、翌年、長崎で4日間穴つりの刑に処せられながら棄教を拒み、殉教した。
最後の一人、ミゲルだけが『伴天連(バテレン)記』の記述から、唯一、棄教した人物とされてきた。しかも彼は同じ頃、後にキリスト教を禁じる大村藩へ仕えたと考えられており、信仰より出世を選んだ裏切り者というレッテルを貼られてきた。また、その晩年の消息が掴めず、4人の中で最も謎多き人物となっている。しかし、有志によって結成された「千々石ミゲル墓所調査プロジェクト」の調査で棄教の疑いが晴れ、晩年の行動も次第に明らかになりつつある。