■ミゲルは棄教していなかった
ミゲルは九州のキリシタン大名・大村純忠の甥(おい)で、同じく有馬晴信のいとこにあたる。帰国後、豊臣秀吉に謁見し、イエズス会(カトリックの布教団体)に入信。しかし、慶長5~8(1600~03)年の間にイエズス会を脱会するのだ。
その理由は『伴天連記』によると、「伴天連を少うらむる子細ありて」。キリスト教を少し恨む子細の内容は不明ながら、イエズス会のほかに日本に進出していた修道会(フランシスコ会など)との抗争のほか、カトリック教国であるスペインによる日本征服の野望が明らかになったことなどが関係しているのだろう。
つまり、キリスト教そのものに疑問を抱いたわけではなく、イエズス会を脱会しただけで棄教はしていなかったと、今では理解されるようになった。
「千々石ミゲル墓所調査プロジェクト」は、その晩年についても、慶長11年(06年)に大村藩がキリスト教を禁じた後、旧有馬領の日野江(島原)藩へ移り、日野江藩も禁止すると、当時、日本のローマといわれた長崎へ移ったとしている。
彼が棄教していなかった事実は、同プロジェクトが彼のものだと特定した墓所の出土品からも裏づけされる。そもそも墓所のある伊木力村(長崎県諫早市)は潜伏キリシタンが多いことで知られ、出土品はキリシタン聖具に使用されていたガラス玉やガラス片。
その墓碑によると、ミゲルは寛永9年(33年)に亡くなったとある。
跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960 年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『超新説で読みとく 信長・秀吉・家康の真実』(ビジネス社)。