今年も真夏の祭典、夢の球宴が開幕。お祭りであり、真剣勝負。人気選手たちのぶつかり合いをプレイバック。

 夏の風物詩、プロ野球オールスターゲーム。今年は7月23・24日に開催だ。

 今回は、2リーグ制導入翌年の51年から70年以上も続く、野球ファンにとっての祭りを総まくり。

 レジェンドたちの名・珍場面を振り返ってみたい。

 まず思い浮かぶのは、オールスター最多登板記録を持つ“カネやん”こと金田正一か。投手としての活躍はむろん、投手での代打出場3回も歴代最多。

 1968年の第3戦(西宮球場)では、代打で安打を記録する“二刀流”ぶり。「“俺が打つ”とばかりに出てきたはいいが、走塁は拒否。出塁後はベンチに下がり、後輩の堀内恒夫が代走に送られました」(元スポーツ紙記者)

 一方、そんなカネやんがセの“主”だとすれば、パのそれは当然、張本勲。

 南海時代の74年に初出場を果たした江本孟紀氏も、その存在感をこう言う。

「当時のパ・リーグの選手には、“実力はセより俺らのほうが上”という気概があった。その中心で睨みを利かせていたのが張本さん。

 もっとも、あの頃は“巨人と、それ以外”の構図。我々が“ONを抑えたい”と思ったのと同じように、セの他球団の選手も、本心では“ONより目立ちたい”だったんじゃないかな」

 その急先鋒と言える存在が、天覧試合の因縁もあった阪神・村山実。

「長嶋の宿敵と呼ばれるだけあって、味方であるはずのオールスターでも、ONとは一切目を合わすことがなかった。今ではオールスター中に選手同士が、トレーニング方法や技術を教え合うことは普通ですが、当時は他球団の選手と挨拶を交わすのも緊張感がありました」(前出の元スポーツ紙記者)

 しかし、村山は、新人で初出場を果たした年、“憧れの選手”の秘密を探ろうとしている。

「59年のオールスター戦で直接、師事することはできないと、村山はランニング中の金田に付いて回るも、置いていかれたそう。“練習量には自信があったけど、金田さんには付いて行けなかった”と述懐しています」(前出の元スポーツ紙記者)

71年の第1戦(西宮)では、村山からエースの座を引き継いだ阪神・江夏豊が前人未踏の9者連続三振という大偉業を達成。打者としても試合を決める3ランを自ら放つ独壇場だった。

「あの日の9人目の打者は、対左投手への代打としては首をひねる左打者の阪急・加藤秀司。これは、全パのロッテ・濃人渉監督の確信犯と言われ、ライバル球団の若き主軸の調子を、江夏の速球で狂わせたいという思惑もあったそう」(前出の元スポーツ紙記者)

 この江夏の記録に挑んだのが、84年の第3戦(ナゴヤ球場)に登板した、巨人・江川卓だ。

「8連続で三振を奪い、9人目の近鉄・大石大二郎は二ゴロ。記録達成を免れたパの面々は大騒ぎで、ベンチにいた南海のドカベンこと香川伸行は“アウトで喜ぶなんて初めて。サヨナラ勝ちしたかのようや”と語っています」(前出の元スポーツ紙記者)

 ところで、前出の江本氏は、江夏とのトレードで75年オフに阪神へと移籍。

 移籍後に経験したオールスター戦では、セ・パの違い以上に「巨人だけが違う」ことに驚いたという。

「他球団の選手は練習も、それぞれ好きにやっているのに、巨人の面々だけはランニングから全員が、きっちり整列してやっててね。周りがお祭り気分だっただけに、驚いたよ」

 さすが、“川上イズム”が浸透した巨人軍だ。

「それと77年だったか。平和台で巨人のメンバーと同じ宿舎になってね。出てくる食事の量が我々とはまったく違って、“こんなことでも負けるのか”と思ったのも、妙に覚えてるよ」(前出の元スポーツ紙記者)

 江川の快投から3年後の87年の第3戦(甲子園球場)では、その巨人を巡る因縁の2人、西武・清原和博と巨人・桑田真澄の”KK対決”があった。

 くしくも“聖地”で実現した両者の対決は、清原が初打席の初球をいきなり左翼席へと叩き込み、「甲子園は清原のためにある」ことを、またも証明してみせた。

「清原はこの一発で、新人だった前年の第2戦(大阪球場)に続くMVPに。清原はまさに“お祭り男”で、歴代最多のMVP7回、通算打率3割6分5厘、34打点はともに歴代1位と、圧倒的な成績を残しています」(元スポーツ紙記者)