■武人の安万侶が『古事記』編纂を仰せつかった理由
後の時代の菅原道真がそうだったように、それだけの仕事をしてのけた安万侶の家は優秀な文人の家系だったと思いたいところだが、意外や意外、彼の父は武人として名をはせ、その息子の安万侶もまた、武人として朝廷に仕えていた可能性がある。ではなぜ、武人の彼が『古事記』編纂という大役を仰せつかったのか。
例の墓誌からは、安万侶が養老7年(723年)7月6日に没し、「従四位下勲五等」を得たことしか分からない。系図などによると、「太」氏はもともと「多(おお)」氏と称し、安万侶の祖父は多蒋敷。彼の妹は百済から亡命してきた王族に嫁いでいた。その王族の男は百済復興のために朝鮮へ戻って戦った武人。文人家系から武人の家に嫁ぐことは考えられず、蒋敷は武人の可能性が高い。
また、その子の多品治(ほむぢ 安万侶の父)はまぎれもない武人。まだ大海人皇子と呼ばれていた天武天皇が当時の近江朝廷に反乱し、政権を奪い取った壬申の乱(672年)で不破の関(岐阜県関ヶ原町)を抑え、乱の勝利に大きく貢献した。
元明天皇の夫は天武天皇の皇子だから、壬申の乱の品治の勲功に報いるため、その子の安万侶に『古事記』編纂の栄誉を与えたとも考えられる。もしも安万侶が武人なら、彼は編纂の責任者に過ぎず、その下に集められた文人たちこそが、すご腕の編集者だったのかもしれない。
※参考文献 和田萃編『古事記と太安万侶』
跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960 年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『超新説で読みとく 信長・秀吉・家康の真実』(ビジネス社)。