教科書には載っていない“本当の歴史”──歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!
30年以上にわたり、五代の天皇(二条・六条・高倉・安徳・後鳥羽)の在位中に、この国のトップとして君臨した後白河上皇。平清盛らから一時的に院政を停止させられたことがあったものの、出家した後も法皇として院政を行い、治承寿永の内乱(いわゆる源平合戦)をしたたかに生き抜いてきた。
その象徴として語られるのが「日本第一の大天狗」という源頼朝の後白河評だ。大天狗というのは善悪の両面を持つ妖怪のこと。頼朝がそう評したことにより、後白河には、権謀術数の限りを尽くして清盛や木曾義仲、源頼朝・義経兄弟と渡り合った謀略家のイメージが生まれた。しかし、本当にそのように政治術にたけた人物だったのだろうか。
頼朝が後白河を大天狗と評したのは文治元年(1185年)11月。
後白河は義経らに頼朝追討の宣旨を与えておきながら、摂津の大物(だいもつ)浜(兵庫県尼崎市)から船出した一行の船が疾風によって転覆し、その挙兵が失敗するや、鎌倉の頼朝へ、近臣の高階泰経に使者を送らせ、「(義経らが)頼朝追討の勅許を得られなければ宮中で自殺すると脅したので、叡慮(えいりょ 法皇の考え)とは違ったが、難を逃れるため、勅許したのです」(『吾妻鏡』)と述べさせた。
事実、挙兵失敗を知った後白河は直ちに義経ら追捕の院宣を出している。つまり、後白河は義経の挙兵が成功したら良し、失敗したら頼朝に近づき、どちらでもいいよう二人の兄弟を両天秤にかけたといえる。だからこそ、頼朝はこの使者の口上を聞き、後白河を大天狗と称した。そう考えるのが一般的な解釈だった。