教科書には載っていない“本当の歴史”──歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!

 NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』で描かれる18世紀後半に、竹内式部という尊王家が処罰される事件が起きた(宝暦事件)。

 式部は京都町奉行所の取調べに「政治は関東(幕府)が京都の三公(太政大臣・左大臣・右大臣)に伺いを立て勅命(天皇の命)を受けて行うべきところ、そうなってはおらず、(天皇にとって)諸侯の一人に過ぎない将軍が政治をおこなう今の天下は危ういと言わざるをえない」と申し述べている。幕府政治を真っ向から批判した形で、痛いところを突かれた幕府にとって式部の主張は危険思想そのものといえる。

 結果、式部は宝暦9年(1759年)、重追放(関東や京都周辺などへの立ち入りを禁じる)に処せられた。

 ところが、事件の経緯を見ていくと、幕府の反応は鈍く、逆に式部の意見に同調するような意見もあった。それではなぜ式部は処罰されたのか。

 式部は越後の医師の子に生まれる。10代後半で上洛(じょうらく)し、公家の徳大寺家に仕えた。彼は新しい神道学派(垂加神道〈すいかしんとう〉)を唱えた山崎闇斎について学び、やがて家塾を開いて桃園天皇近習の徳大寺公城(きんむら)・久我敏通、正親町(おおぎまち)三条公積(きんつむ)らに尊王思想を吹き込んだ。そのテキストにしたのが『日本書紀』。言うまでもなく天皇が政治の中心だった時代の歴史書だが、徳大寺らの近習を警戒したのは幕府ではなく、摂関家だった。