■女官が恋文と勘違いして開いた文は、近習から天皇への告発文だった
当時の公卿(くげ)の日記などから摂関家、特に前関白一条道香(みちか)が式部門下の近習らを警戒していたことが分かる。彼らが進講を通じて天皇との関係を深め、摂関家がないがしろにされることを警戒したのだろう。
一方の近習らは天皇へ「仮病を装って関白に会わないように……」と、摂関家との分断を図る企みを漏らしており、この問題は式部の思想を通り越し、「摂関家対天皇近習」という権力争いの様相を呈してくるのだ。
そこにこんな逸話が加わる。
宝暦8年7月のある日、天皇の寵愛(ちょうあい)を受けていた女官の一人が御座所で書状を見つけ、それが他の女官からの艶書(恋文)だと勘違いして文を開くと、それが近習から天皇への告発文だったというわけだ。そこには近習への締め付けはすべて一条道香らの謀計である旨が記され、両陣営の対立は決定的となる。
天皇も摂関家側から告発文を示され、同年7月24日、ついに式部門弟の近習らの免官、もしくは永蟄居の処分に同意するのだ。こうして政争は摂関家側の勝利に終わり、式部は京都町奉行所に身柄を押さえられた。こう見ると、式部は朝廷内の政争のとばっちりを受けたに過ぎないといえる。結果、幕府も式部の思想に対し、「幕府が天皇から大政を委任されていう」という形を繕い、こうして時代は尊王思想をはらみながら、幕末を迎えるのである。
跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960 年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『超新説で読みとく 信長・秀吉・家康の真実』(ビジネス社)。