教科書には載っていない“本当の歴史”――歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!
幕臣・土山宗次郎は、多くの文化人と「酔月楼」と呼ぶ邸宅(新宿区)で連夜にわたる乱痴気騒ぎを繰り返し、NHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』に、田沼時代を象徴する一人として登場する。新吉原遊郭「大文字屋」の花魁・誰袖(たがそで)を身請けして話題になったものの、公金500両(現在の貨幣価値で約5000万円)を横領し、老中・田沼意次の失脚後、死罪に処せられた人物だ。
松平定信ら反田沼派への政権交代によって旧政権時代の“悪の象徴”として見せしめにされた形だ。したがって彼の功績について江戸時代の公式史料は沈黙を貫いている。
その幕臣・土山は田沼政権下で70俵5人扶持(ふち)から350石の勘定組頭へと出世。自ら「軽少ならん」の狂名を持ち、天明2年(1782年)正月3日には酔月楼で男女が乱交状態で宴を催したという記録もある。
翌年7月には浅間山が噴火。東北が大飢饉に見舞われ、さらにその翌天明4年には江戸市中で米価が高騰し、若年寄・田沼意知(おきとも・意次の嫡男)が江戸城内で刺殺される事件もあって世相が混とんとする中、宗次郎は850両で誰袖(本名すが)を身請け。諸費用ご祝儀合わせると1200両(1億2000万円)というから、それこそ“べらぼう”な金額だ。
そして身請け料を不正で埋めようとしたのか、天明6年(1786年)2月から7月にかけて、米価調整や飢饉対策のために幕府がコメを買い上げた際、実際の買い上げ価格より高い偽の届出書を作って差額分を横領。この直後の8月に意次が失脚したこともあり、不正発覚後、連座する者49名に及ぶ大疑獄事件として新政権が摘発に乗り出したのだ。