■日本史に大きな足跡を残した蝦夷地(北海道)開発

 宗次郎は発覚後に江戸から蓄電し、所沢の勝楽寺山口観音に潜伏するが捕えられ、鈴ヶ森の刑場(品川区)で公開処刑される予定のところ、身分が身分だけに最終的には伝馬町牢屋敷(中央区)内で刑が執行された。

 庶民の苦しみを尻目にバブルな暮らしを続けた天罰が下ったといえばそれまでだが、それとは別に彼は日本史に大きな足跡を残している。

 蝦夷地(北海道)開発だ。仙台藩医・工藤平助の『赤蝦夷風説考』に触発された宗次郎が知人の狂歌師・平秩東作(へずつとうさく)に蝦夷地の探検を命じて、その報告書を残し、それが後の蝦夷地調査につながるのだ。また宗次郎は松前藩とロシアとの密貿易(抜け荷)の情報をつかみ、意次は松前藩から蝦夷地を取り上げ、幕府の直轄地にしようとしたとみられる。

 その計画そのものは田沼派の失脚で頓挫するが、ロシアの極東進出の脅威もあって幕府も蝦夷地を無視できず、宗次郎の死後12年後の寛政11年(1799年)、蝦夷地の一部を直轄地とする。定信らの改革の見せしめになった男には先見の明があったというべきだろうか。

跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960 年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『超新説で読みとく 信長・秀吉・家康の真実』(ビジネス社)。アメブロ『跡部蛮の「おもしろ歴史学」https://ameblo.jp/atobeban/』、SNS:X(@atobeban)、インスタグラム(atobeban