■気さくな性格の“愛されキャラ”だった

 寛政元年(1789年)2月上演の人形浄瑠璃『木下蔭狭間合戦(このしたかげはざまがっせん)』に近松余七の名で合作者として加わったのが、いわゆるデビュー作。30歳の頃に江戸へ出て、蔦屋重三郎が営む書肆(しょし・書店兼出版社)『耕書堂』の食客となり、蔦重に薦められて黄表紙本(当時の娯楽本の一種)を書き、以後毎年20冊近くの著作を書いた。

 文のみならず、挿絵(浮世絵)、さらに版下(製版原稿)まで一貫して請け負ったので書肆から重宝されたようだ。当時、原稿料で生計を立てる職業作家が登場しだした頃で、その走りとされる『南総里見八犬伝』の滝沢馬琴も「(彼のように)半生を作家活動で送った人は多くない」と感嘆するほど多くの作品を残した。

 ただ、一九の作品には独創性やストーリーの緻密さはなく、蔦重の死後に一九の代表作となる『東海道中膝栗毛』(続編を含めて20年で完結)は山東京伝(当時の売れっ子作家の一人)の道中モノを参考にしたとされるが、それは逆に一九の交友の広さを物語る話でもある。

 彼が気さくな性格で、いわゆる“愛されキャラ”だったのは、決して人をほめない馬琴が「自分を飾らず、能(他人の才能)を妬むこともない。あっぱれな戯作者」と評していることで明らかだ。

 一方、実際に一九に会った人物の談話などから、とても『東海道中膝栗毛』を書いたとは思えぬ「真面目な男」という人物像も浮かび上がる。滑稽な作品とは真逆な性格だったのかもしれない。

跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960 年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『超新説で読みとく 信長・秀吉・家康の真実』(ビジネス社)。アメブロ『跡部蛮の「おもしろ歴史学」https://ameblo.jp/atobeban/』、SNS:X(@atobeban)、インスタグラム(atobeban