■死因まで同じだったという睦まじい夫婦仲

 まず文久3年(1863年)2月に家茂が上洛(じょうらく)する際、風邪で熱にうなされながらも夫の身を案じ、道中が海路と聞いて道替えを申し入れている。また、夫の出立後も和宮はその加護を願い、芝・増上寺の黒本尊(阿弥陀如来)の御札を部屋の上段に掲げ、7か月間、部屋をぐるぐる回るお百度参りを続けた。また、夫の家茂は家茂で、留守中の和宮を気遣い、凶事を払うという人形を贈った。

 さらに、いったん江戸へ戻った家茂が同年12月に再上洛することになった際には夫にお守りを渡し、慶応元年5月の3度目の上洛には黒本尊の他、武士の守護神である摩利支天にもお百度を踏んだという。しかし翌年、夫は大坂城内で病没。

 この3度目の上洛の際、家茂に土産は何がいいかと聞かれた和宮は、故郷である京西陣の帯を所望しており、その形見の品が江戸城に届くと、泣き崩れたと伝わる。

 この夫婦は「脚気衝心(かっけしょうしん)」という死因まで同じだった。脚気はビタミンB1欠乏症の一つで衝心(心不全)を引き起こす。和宮は維新後いったん京へ帰郷した後、再び江戸へ戻り、明治10年(1877年)、脚気治療のために箱根塔の沢温泉(旅館環翠楼/かんすいろう)で療養中、衝心の発作で没した。32歳だった。

「夫のそばに葬ってほしい」という遺命によって増上寺に葬られるが、その墓所の発掘で彼女がハガキ大の透明なガラス板を抱いていることが判明。板にうっすらと男性らしき人物が映っていた。彼女は夫の肖像写真を抱く形で葬られたのだろう。

※参考文献/辻ミチ子著『和宮』

跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960 年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。
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