教科書には載っていない“本当の歴史”――歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!

 戦国ヒーローの1人に鳥居強右衛門(すええもん)という武士がいる。確実なのは強右衛門という通称くらいで氏(うじ)も「鳥居」「鳥井」と定まらず、徳川家康に仕える奥平信昌の家臣であるのは確かだが、足軽などの軽輩か、有力な家臣なのかもわからない。

 通説は、天正3年(1575年)の長篠の合戦で織田・徳川連合軍を大勝利に導いた英雄だという。まず通説に従い、その活躍を見ておこう。

 その年の5月、奥平家の長篠城(愛知県新城市)が武田勝頼の大軍に囲まれ、城内では岡崎城の家康へ援軍要請することに決まり、強右衛門がその使者に志願した。彼は武田軍の包囲網をかいくぐって脱出に成功。岡崎城で長篠城の窮状を訴え、家康は信長ともども出陣する決意を伝えた。強右衛門はその返事をすぐ城中の兵らに伝えようと長篠城へ戻る途中、武田の兵に捕らえられてしまう。

 このとき武田方は強右衛門に、城兵へ「援軍はこない。降参したほうがよい」と言えば命を助けるという約束で城近くまで連行したが、強右衛門は「援軍はすぐ到着する」と叫び、怒った勝頼によって磔(はりつけ)にされ、殺された。結果的にこの行為が長篠城籠城を継続させ、やがて織田・徳川連合軍が駆けつけて大勝利を収める。先に城が落城していたら史上名高い長篠の合戦は起こらなかったかもしれず、江戸時代にも強右衛門は「武士の鑑」と称された。