■江戸随一の評判を取るようになった商売の手法とは
八右衛門は知人の呉服商(俳号・木綿)、書肆(しょし)星運堂の初代花屋久次郎とともに江戸市中の組連(投句グループ)を取次として宝暦7(1757)年、万句合(まんくあわせ)の会を催した。各取次から付句を集めたうえで八右衛門が点者(採点者)となって入選作(勝句)を決め、現在でいう景品を出した。
彼が商売上手だったのは、入花料(参加料)一句につき12文(およそ300円)を徴収したものの、ライバルの万句合の数倍もの入選作(最高賞で524文=およそ1万3100円)を選んだこと。その分の景品の経費がかさむものの、それでも6000句を集めたら、入選作を書き出した刷り物の印刷費用などを除き、なんとか黒字にもっていけると皮算用。また、万句合の興行を参勤交代が終わる8月以降として、武士の参加を求めたことも功を奏した。
明和2(1767)年には前句を省いて優秀な付句(五・七・五)だけを集めた『俳風柳多留(やなぎだる)』の初編が星運堂から刊行され、さらに当初3000句ほどしかなかった応募も、その2年後には2万句を突破。やがて、八右衛門(川柳)評の万句合は江戸随一の評判を取り、独立した付句(狂句)が「川柳」と呼ばれるようになるのだ。
跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960 年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。