教科書には載っていない“本当の歴史”――歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!
“令和のコメ騒動”も終息したとは言い難い状況だが、江戸時代の天保年間に起きたコメ騒動は飢饉(1833~36年)に端を発し、豪商の買い占めもあって庶民は困窮を極めた。
そこで元大坂町奉行与力の大塩平八郎が立ち上がり、天保8年(1837年)2月19日の朝、私塾「洗心洞」の門下生や近在農村の富農らとともに決起。町に火を放って船場を襲い、鴻池など豪商の蔵を打ち壊して奪った金やコメを窮民に与えたが、一日で鎮圧された。
平八郎は、大塩勢によって家を焼き出された民衆の間においてさえ「有り難がる者多き」(『咬菜秘記(こうさいひき)』)というほど人気があり、その後も大塩一党を名乗る百姓一揆が続発する。
なぜ、大塩は乱を起こしたのか――。町奉行や役人らは政道の根本を忘れ、特に東町奉行・跡部良弼(よしすけ)に至っては自己の栄達のため、飢餓に苦しむ大坂の民衆を尻目に、将軍のお膝元・江戸へ優先的に廻米(かいまい)していたという。以上を理由とするのが通説だ。
こうして跡部良弼一人が汚名を一身に背負う形となったものの、平八郎が決起の前日に幕府の老中方へ出した建議書の存在によって、彼が本当に訴えたかったことが見えてきた。