教科書には載っていない“本当の歴史”――歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!

 朱鳥元年(686年)9月に父・天武天皇が崩御した翌月、大津皇子が謀反の罪で捕えられ、自害した。皇位継承の有力候補とされながら24歳で生涯を終えたわけだが、奈良時代の漢詩集『懐風操』からは、謀反を働く人物と思えない素顔が浮かび上がる。事件の真相に迫ってみたい。

 天智天皇2年(663年)、筑紫国の娜大津(福岡市)で生まれたため、この名がある。母は天智天皇の娘で大田皇女(ひめみこ)。4歳で母を亡くし、9歳のときに母方の祖父である天智も崩御。壬申の乱(672年)を経て天皇となった父・天武(天智の弟)が後継者に選んだのは1歳年上の異母兄・草壁皇子だった。天武8年(679年)、天皇ファミリーがそろって吉野へ行幸した際、天武が多くの皇子たちを前に草壁皇子を次の天皇とし、兄弟互いに争わないことを誓わせた。これを「吉野の盟約」と呼ぶ。

 その草壁の母は鸕野讃良皇女(うののさららひめみこ)。大津の母・大田の妹で、ともにまだ大海人皇子と呼ばれていた時代の天武の妃となったが、大田が早くに亡くなったため、鸕野が皇后となり、その子の草壁が天武の皇位継承者に指名されたのはいわば必然だった。