■鸕野が大津の“失言”を逆手にとった謀反の捏造か
ところが、「吉野の盟約」の4年後、『日本書紀』に「大津皇子初めて朝政(朝廷の政治)をとる」と記載される。おそらくこれは天武の意志だったのだろう。だが、これでは群臣に大津が草壁と並ぶ存在になったと宣言したようなもの。「吉野の盟約」で後継者争いを封じた天武がわざわざ禍(わざわい)の種をまいた形だが、天武は、当時の官人たちが大津皇子を推す声に逆らえなかったのではなかろうか。
ここで前述した『懐風操』に注目しよう。同書によると、大津は「度量が大きく幼年より学問を好み、博識かつ武を愛した」「性格は放蕩(ほうとう)ながら人に礼節を尽し、よく人に頼られた」という人物。生まれついて帝王学を身につけた人物といえる。
ところが天武の死後、大津の親友・川島皇子の密告によって皇太子草壁への謀反が明るみに出た。こうなると、鸕野が草壁を皇位につけるため、最大のライバルである大津を葬り去ろうと、謀反の罪を捏造(ねつぞう)したといいたいところだが、その証拠はない。
ただ、事件に関与したとされる30余人の多くが許される一方、大津をそそのかしたとされる側近だけが配流されている。大津自身にその気がなくとも、たとえば、側近にたきつけられた大津が親友の川島に草壁を批判するような話を囁き、それが鸕野の耳に入って彼女がそれを意図的に拡大解釈。大津を謀反人に仕立てあげた――鸕野が大津の“失言”を逆手にとった謀反の捏造が、この事件の真相ではなかったろうか。
なお、草壁は当時の即位可能年齢に達する前に他界し、やがて天皇の代わりを務めていた母の鸕野が持統として即位するのである。
跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。