■義満を“モンスター”にした一因とは

 後円融が、その義満と対立する伏線となったのは康暦二年(1380年)八月七日のこと。天皇側近の公卿の日記によると、その日、義満が参内したものの、後円融は酒宴の最中。そこで義満はいったん辞去するのだが、それを知った後円融によって、わざわざ内裏へ連れ戻された。

 しかも、そのとき義満に笙(雅楽の管楽器の一つ)を薦められた後円融は乗り気でなかったらしく、義満はそのことに不満を抱く。彼にしてみたら、気難しい天皇と笙で友好を深めようと思ったところ、拒まれた形だ。こののち、義満が公家の立場で執奏した案件に天皇が難色を示し、両者の対立は本格化する。

 永徳二年(1382年)、後円融は上皇となったものの、譲位した皇子(のちの後小松天皇)の即位礼にあたり、自身が皇子の後見役であるにもかかわらず、まるで動こうとしなかった。義満が良基とばかり相談するのでへそを曲げてしまったらしい。やがて、公卿らが激怒した義満に忖度し、後円融が主宰する仏事をボイコットする事態にまで発展する。

 こうして後円融のイライラが募っていったのだろう。その中で前代未聞の事件が起きる。妻の一人、三条厳子が三度目の出産を終えて内裏に戻って間もない頃、後円融が彼女の局に剣を持って乱入し、峰打ちながら重傷を負わせたのだ。現在でいえば正真正銘のDV(家庭内暴力)にあたる。さすがに大変なことをしたという自覚はあったのだろう。義満の使者が派遣されてくると配流されるものだと思い込み、持仏堂に籠って「自害する」とまでいい出した。

 義満を“モンスター”にした一因は、この天皇にあったといえようか。

跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。