教科書には載っていない“本当の歴史”――歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!
明応二年(1492年)四月二二日の夜、室町幕府一〇代将軍足利義材が河内へ出陣して京を留守にしている間、将軍の廃位と新将軍足利義澄の擁立を図ったのが細川政元。
現職の将軍が臣下の者に、その座を追われるのは前代未聞のこと。その後、管領となった政元と新将軍は対立と和解を繰り返すものの、現将軍追放というクーデター(明応の政変)は、下剋上の最たるものとされ、この後、幕府の秩序が一気に崩れ、本格的な戦国時代を迎える。
この政元は、戦国の幕を開けた男という評価とともに、なんと、オカルト武将というレッテルを貼られている。そう呼ばれるほどに不可思議な人物の実像を探ってみよう。
政元は応仁の乱で東軍総大将となった勝元の嫡男で父の死後、家督を継いだ。彼がオカルト武将といわれるのは『足利李世記』などの史料から分かる。要約すると、愛宕の法などの「魔法」に嵌り、効力を弱めまいと、四〇歳頃まで女人と交わらなかった。ときおり、人を呪う陀羅尼経を唱えるため、見る人は身の毛もよだつほど。「魔法」の効力によって空へ舞い上がろうとした――。
本気で彼がそこまで考えていたかどうかは分からず、脚色された疑いはあるものの、関白九条尚経が書き残した日記によって、政元が司箭という山伏に師事していた事実は確認できる。その二人は、源義経が天狗と修行したと伝わる鞍馬寺で怪しい修法を行っている。