■既存の権威や伝統に執心しない“オカルト武将”

 また、別の史料によると、政元が師事した司箭は「魔法の術を会得し、京の愛宕山に登って現身の体のまま魔界に入った」とある。やはり政元にはオカルト武将と呼ばれるだけの根拠があったわけだが、別の見方をすると、彼は既存の宗教に飽き足らず、彼なりに求法の道としてオカルト的なものに嵌っただけともいえる。

 事実、政元は既存の宗教の権威に何のこだわりもなかった。前述した明応の政変後、巻き返しを図る前将軍義材が京に迫り、比叡山延暦寺が加担したため、政元は躊躇なく、根本中堂をはじめ、延暦寺の堂塔をことごとく焼き払った。比叡山焼き討ちは後に織田信長が悪名を馳せるものの、近年の調査によって信長の焼き討ちは限定的だった事実が明らかになりつつある。全焼の罪はむしろ政元が負うべきものかもしれない。

 政元は当時、元服の際に烏帽子を被せる儀式にも否定的で、烏帽子親になるのを嫌い、頼まれた元服の儀式が延期になった事実が公家の日記につづられている。

 つまり、現将軍を平気で廃位したことといい、彼は既存の権威や伝統に執心せず、よく言えば、進取の気質があった武将といえよう。しかし、子をもうけなかったことが禍いし、養子同士が家督を争う中、暗殺されるのである。

跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。