教科書には載っていない“本当の歴史”――歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!

 関ケ原の合戦に敗れた毛利輝元は、戦後処理の結果、徳川家康によって112万石から29万8000石余へと減封される。それどころか、毛利家は一時、家康の怒りを買い、全所領が没収となるところだった。

 そこで、毛利家の重鎮の1人、吉川広家(毛利元就次男・吉川元春の三男)が自己犠牲を払って本家の窮地を救い、その行為は美談として語り継がれている。しかし、その美談に捏造の疑いが持ち上がっている。

 美談とは、こうだ。関ケ原の合戦の際、輝元は西軍総大将格として大坂城西の丸に座し、従兄の毛利秀元がその代役で従軍した。毛利軍は関ケ原の南宮山に陣するが、合戦前日、吉川広家が東軍方の黒田長政や福島正則らと密約を交わし、「毛利家が家康に忠誠を尽くす」「その代わり、家康が輝元を粗末に扱わないという自筆の誓書を差し出す」ことになった。

 結果、広家は南宮山の毛利軍を動かさず、合戦は東軍の大勝利に終わる。この東軍方との密約について大将の秀元や大坂城の輝元は知っていたのか、それとも広家が毛利家重臣の福原広俊とだけ謀って実行したのか。いずれであるのか諸説あり、定まっていない。