■皇族を一喝した慶喜

 元治元年二月一五日、御所に参与が横浜鎖港を議論するために顔をそろえ、久光らが反対を唱えるものの、慶喜が弁舌鮮やかに押し切った。その翌日、二条城に参与が集まった酒席でのこと。渋沢栄一著『徳川慶喜公伝』によると、久光が参与のメンバーにこう伝えた。

「中川宮(薩摩に近い皇族)が高崎猪太郎(薩摩藩士)を呼んで昨日の会議はなかったことにしようと仰せになられた」

 すると、上機嫌で酒を飲んでいた慶喜が、すぐさま久光、春嶽、宗城の三人を連れて中川宮邸へ押しかけ、宮の真意をただすことになったのだ。そして慶喜は中川宮を一喝する。

「薩摩の奸計はみなが知っているところ。あなたの返答によっては腹を切る覚悟で刀を用意してきた。朝廷の意見がこうも変わるようなら天下の安否にかかわる。横浜鎖港は幕府で進めていくから宜しく頼む」

 この発言に中川宮や久光らの顔が土気色に変わり、慶喜はなお、天下に賢侯と呼ばれる三人を「天下の大愚物・大奸物」と言ってのけた。

 結果、罵倒された賢侯らと慶喜の仲はこじれ、参与会議は解散。薩摩のもくろみは崩れ、逆に朝廷内で慶喜の発言権が増して将軍と幕府が失っていた政治の主導権を取り戻すことに成功するのである。

跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は古野貢『オカルト武将・細川政元』(ビジネス社)。