教科書には載っていない“本当の歴史”――歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!

 来年のNHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の主人公は兄の天下取りを支えた豊臣秀長。そこで日本史上の「ナンバー2」に注目が集まっている。

 多くの歴史偉人らがその称号を手にする中、日本史上、“最後のナンバー2”といえるのが江戸幕府一五代将軍の一橋(徳川)慶喜。一般的には「最後の将軍」として知られているが、文久二年(1862年)七月、勅旨によって一四代将軍家茂の後見職に任じられ、若い家茂をよく補佐して幕末の難局にあたった。

 慶喜が将軍後継職だったのは元治元年(64年)三月まで。わずかな間で彼が光彩を放つのは、文久三年(63年)一二月に再上洛を遂げて以降だ。

 再上洛後、慶喜は朝廷によって参与会議のメンバーに任じられる。この会議は「賢侯」と呼ばれる諸侯(越前藩の松平春嶽、土佐藩の山内容堂、薩摩藩の島津久光、宇和島藩の伊達宗城ら)と慶喜が朝議に加わり、重大な国政を議論するためのもの。すなわち、幕府とは別に国の政治を動かす組織が生まれたことを意味していた。島津久光の建議によって誕生した組織で、薩摩が中央政局での主導権確保を狙う意図があった。

 やがて薩摩の魂胆に気づいた慶喜が巻き返しを図る。当時、横浜鎖港が国政の重大な焦点になっていた。薩摩藩は朝廷を攘夷から開国へ方針転換させようとしており、慶喜も攘夷の無謀さは重々承知しつつ、逆に攘夷(鎖港)の立場を示すことで主導権を奪い返そうとしたのだ。