■格の違いを見せつけた、華美を極めた行列
将軍職とは別に義満の朝廷での官位昇進を図って諸大名と将軍の格の違いを示し、かつ、今でいうパレードを演出して庶民にもその権威を見せつけた。たとえば、石清水八幡宮(京都府八幡市)参詣の際の行列は華美を極め、諸大名以下数百騎が供奉。後詰の警備までの距離は数十町(数キロ)に及ぶものだった。その一方で頼之は管領として節約令を発布しているから、将軍だけは別格だと言いたかったのだろう。そして同じ頃、「花の御所」造営計画が動き出したのだった。
その頼之には、こんな逸話がある。諸大名列席の場で、ある人が「主君の使いに行く途中で親の仇に会ったらどうすべきか」と問うたところ、誰もどちらを優先すべきか答えられなかったが、当時10歳だった頼之が「さような仔細ある者(親の仇をもつ身)は主君に仕えてはならない」と言って皆を感嘆させたという。作り話だろうが、頼之にはそう語り継がれる資質が備わっていたのだろう。
その一方、意外な一面もあった。将軍の権威が高まり、その「ナンバー2」として頼之が権力を掌握すると、反対勢力の風当たりが強くなり、康暦元年(1379年)、彼らが花の御所を軍勢で囲むと、義満はやむなくその主張を入れて頼之は失脚。出家して四国で逼塞(ひっそく)した。その後、義満に乞われて復権するが、晩年(62歳)に弟へ宛てた書状で「(義満は)一度仰せになったことに人が何かいうのを嫌う」などと、自分が育てた将軍への愚痴を連発している。それとも、それこそが「ナンバー2」としての自負心の表れであろうか。
跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は古野貢『オカルト武将・細川政元』(ビジネス社)。