■名老中あっての徳川将軍家
まず定信は「物静かで何も語らないが信用が置け、徳を感じさせられる」と評しているので、これ以上の賛辞はないだろう。さらに「だからこそ忠秋の賢徳を示す逸話が語り継がれている」としている。
例えば、上野寛永寺と芝増上寺へ将軍の代参で参詣途中に棄児(きじ)を見かけると必ず連れて帰って養育するので、家臣の中にはその費えを心配する者もいたが、忠秋はただひと言、「遊興費に使ったと思えばいいではないか」と言って聞かなかったという。また、将軍家光が湯殿で誤って熱湯をかけた奥坊主を死罪にすると言いだしたとき、いったん家光の意向を聞いて引き下がったものの、しばらくして御前に伺候し、「はて、先ほど承った奥坊主の処分は何でございましたでしょうか」とすっとぼけた。すると家光も忠秋の意図を理解し、罪を減じて遠島にしたという。
この忠秋が老中を退いた後、酒井忠清(さかい・ただきよ)が「下馬将軍」と呼ばれて権勢を握るが、忠秋は「近年、貴殿(忠清)の奢りが著しく、その振る舞いによって世間は下馬将軍と呼んでいるそうだ。これではまるで将軍が2人いるようなもので、上様を軽んじ、将軍家の御威光を損ねることになる。これこそが不忠の極みだ」と𠮟りつけたと江戸中期の説話集に記されている。時代が下った後の史料だから話半分としても、忠秋なら、さもありなんと当時の人々に思われたのだろう。
保科正之も「執権(老中)全盛の頃には、たいてい邸の出入りが激しいものだが、豊州(忠秋)邸が絶えず静かなのは、権勢を誇らない故であろう」と語ったという。
強いて粗探しをするなら「酒好きで男寵(だんちょう)(男色)を好む」ことだと、林鵞峰はその日記に記しているが、それとて「40歳になってみずから誓って酒を禁じ、淫事を断ち、奉公を1日も怠らなかった」と続く。
この名老中あっての徳川将軍家だったと言えよう。
跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。