■経済政策の光と闇
こうして明和7年に幕府財政は2万両の黒字となり、意次が老中となった頃には、その黒字幅が49万両に広がった(藤田覚著『田沼意次』参照)。家治が幕府の金蔵を満たしてくれる意次を重用したくなるのも頷ける。しかし、意次の政策は株仲間の恩恵に浴する豪商を生んだ半面、制度の埒外に置かれる者との貧富の差を生じさせる結果となった。
もう一つ、意次の画期的な政策に「幕府銀行」の創設がある。意次が失脚する天明6年に出した全国御用金令だ。幕府が全国の寺社や農民(小作は除く)や町人(地主)に御用金をかけて大坂の貸金会所(銀行)に納めさせ、そこから大名に年七朱(年7%)の金利で貸し付ける制度だ。意次は幕府のみならず、財政難にあえぐ大名を救済しようとしたのだ。
この「幕府銀行」制度は、もし返済が滞った場合でも幕府が担保にとった大名領から年貢を取り立てて出資者に支払う仕組み。御用金の額は豪農クラスで2両ほどだが、幕府がバックにいるので取りはぐれがなく、事務手数料を除いた年7%の利息も得られる。ところが、その年は天明の大飢饉の最中で発令の直後に関東で大洪水が起こり、出資者側の余裕がなくなり、沙汰やみとなった。このほかにも意次の経済政策のいくつかは飢饉によって頓挫し、反田沼派によって失脚させられるのであった。
跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。