■後世に重秀悪人説がはびこった最大の要因とは
まず、宝永4年(1707年)の富士山大噴火などの災害が相次いで幕府の支出が増え、財政が再び悪化したこと。次に宝永7年以降も重秀は銀貨の改鋳を行い、老中らの許可を得ていなかったこと。
しかし、後世に重秀悪人説がはびこった最大の要因は、彼を蛇蝎(だかつ)のごとく嫌った人物がいたからだ。
6代将軍徳川家宣に仕えた儒学者の新井白石だ。
彼が引退後に書いた回顧録の『折たく柴の記』を読むと、けっして経済に明るいといえず、重秀の政策をどこまで正確に理解していたかは疑問。
新井は将軍家宣へ執拗なまでに重秀弾劾を訴え、正徳2年(1712年)、重秀は勘定奉行を罷免され、翌年失意のうちに亡くなる。自ら断食して命を絶ったともいわれる。
新井は「(重秀が)26万両をわかちとり」つまり、賄賂を受け取っていたと記し、悪人説が決定的になったものの、一方的に新井がそう書いているだけで確証はない。
重秀の罷免後、経済が再びデフレに陥ることを考えると、彼を失脚させた新井にも、その責任の一端はあるだろう。
跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。