■円喜が権限を握ったワケ

 円喜入道が幕府の人事権を握っていたのは事実だ。

 たとえば、幕府の執権を務めた北条貞顕(ほうじょう・さだあき)が六波羅探題(京都の出先機関のトップ)だった子息貞将(さだゆき)の鎌倉への帰還を願い、「長崎入道になんども申し入れた」とみずからの書状で語っている。

 いつの時代も組織を思うまま動かすには人事権の掌握が重要だ。それではなぜ、円喜入道はその権限を握ったのか。

 話はだいぶさかのぼる。三代執権北条泰時の時代に評定衆が設置され、有力御家人による合議制がスタートしたものの、得宗家の力が北条一族の中で際立ち、その権力が肥大化するにつれ、「深秘の沙汰」と呼ばれる寄合で重要な政策が決められるようになる。

 この寄合は得宗家の邸内で開かれ、むろん、執事も参加する。こうして幕府の運営は合議制から得宗家内の秘密会合という密室政治へと変質し、円喜入道の曾祖父(盛綱)の時代に執事の権限も大きくなって、幕府の軍事警察権を担う重要ポスト、侍所の所司(次官)を兼ねた。

 得宗を内閣総理大臣に例えると、補佐官が官邸内の秘密会合で政策決定に関わり、さらに防衛事務次官と警察庁次長を兼ねたようなもの。円喜入道はこの地位を世襲したわけだ。

『増鏡』で名指しされたこともあって、彼一人に批判が集まりがちだが、先ほどの北条貞顕の書状をよく読むと、彼は円喜入道に申し入れた後、「城入道にも重ねてお願いした」と記している。

 城入道とは有力御家人の安達時顕(あだち・ときあき)のこと。得宗の北条高時の外戚にあたる。都から公卿が下向(げこう)した際、円喜入道と時顕が応対し、その公卿は「時顕を恐れ、退座した」という。それだけ彼も“コワモテ”の実力者だったのだ。

 この二人のほかにも人事権などの重要な案件に関係する得宗家家臣もいて、長崎父子だけが幕政を自在に操れたわけではない。また、政治の安定という意味では、合議制を基本にした泰時の時代より上だという指摘もあり、幕府滅亡の要因には、より深掘りする必要が生じている。

※参考文献 細川重男著『鎌倉政権得宗専制論』

跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。