■「卜部系図」はデッチ上げ!?
以上の通説の多くは「卜部系図」に基づいているものの、その系図そのものが吉田神道の大成者といわれる卜部(吉田)兼倶という人物の詐計、すなわちデッチ上げだという(小川剛生著『兼好法師』)。
神官の家系として卜部氏には、いくつかの「流」があり、吉田は当時傍流で、有名人である兼好を恣意的に結びつけたというのが、その理由。むしろ、同じ卜部氏でも兼好はその交流の記録から平野流とつながり、この流れを汲んでいるとすると、『徒然草』の作者は平野兼好だったことになる。
それはともかく、通説の嘘は次の史料によって事実上証明されたといっていい。
兼好は鎌倉幕府の執権を務めた北条貞顕と交流があり、その書状で「兼好帰洛の時に」と呼び捨てにされている。当時、貞顕の官位は正五位下で兼好は従五位下。貞顕の官位が上だが、わずかな差。その相手を書状で呼び捨てにするのは言語道断だ。
つまり、兼好がこのとき貞顕よりずっと下の官位だったか、無位無官だった可能性すらある。
それでは彼が無位無官だったとして、なぜ幕府の執権を務めた人物と交流できたのか。それは、兼好が著名な文人だったからだ。鎌倉幕府が滅び、足利尊氏が新たに幕府を開いた頃、『太平記』に幕府の執事・高師直が絶世の美女といわれた塩谷高貞の妻にラブレターを送る有名なシーンが登場する。
その師直のラブレターを代筆したのが兼好だった。このとき、彼女に受け取りを拒否され、「役に立たぬ」と師直に罵倒されるが、当然、代筆の報酬はあったはず。また、前出の貞顕には六波羅探題(鎌倉幕府の京の出先機関のトップ)だった時代があり、兼好が貞顕に仕えていたという指摘もある。
それらを(2)無位無官なら、どのように生計を立てていたのか、の答えとしておきたい。
跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。