■少弐氏への復讐
隆信は出家していたため難を免れ、曾祖父の家兼に連れられ、筑後柳川城主の蒲池氏を頼った。やがて家兼が反撃に転じて水ヶ江龍造寺家を再興。隆信が31歳のときに少弐氏を滅ぼして復讐劇は完成する。
ただ、そこに至るまで一波乱あり、還俗して水ヶ江龍造寺家の当主となった隆信は、やがて宗家の村中龍造寺家の家督も継承するが、反発勢力によって一時、村中城(後の佐賀城)を追われている。
その際、再び柳川城主の蒲池氏を頼り、最終的に隆信の家督継承が決定する。こうして少弐氏を滅ぼした後、隆信は豊後の大友氏と争いながら、その侵略を阻み、肥前統一へ乗り出すのだ。
以上の通説を受けてその後の状況に目を移すと、彼がほぼ肥前一国を平定し、戦国大名にふさわしい身代を築くのは、50歳になった頃。その後、筑後南部や肥後北部に勢力を伸ばしているのは事実。
通説によると、やがて筑前に進出し、弟の信周を豊前にも遣わして両国を平定したことになっている。しかし、一次史料を検討した結果、現実的に隆信の支配が及ぶのは肥前を除くと筑後南部までで「五州二島の太守と評されるような成果を上げたとは言い難い」(中村知裕著『龍造寺隆信』)。
残虐非道ぶりも見直されている。通説では窮地をたびたび救われた恩人の蒲池氏を隆信が謀殺したとするものの、一次史料から家兼・隆信が蒲池氏へ逃れた「事実を確認することはできなかった」(前同)という。
ともあれ、隆信は天正12年(1584年)、薩摩の島津氏に沖田畷の合戦(島原合戦)で敗れ、56歳で討ち死にするが、その際、2万5000もの大軍を動かせる戦国大名へ成長していたことは事実といえる。
跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。