■「豊臣兄弟」陣営入り
秀長には確認できる実子の男子が一人いて、『高山公実録』(秀長の家臣・藤堂高虎の一代記)に「御実子早世」とあり、この「御実子」が別の史料で確認できる「木下与一郎」だと考えられる。この「御実子」が早世していたため、天正10年(1582年)、丹羽長秀の三男(高吉)を養子に迎える。このタイミングで秀長がその跡取りとして丹羽家から養子を迎えるのは、長秀を兄弟側に取りこむための政略といえる。
こうして「豊臣兄弟」陣営入りした長秀は賤ケ岳の合戦(1583年)で秀吉とともに柴田勝家を破り、豊臣政権下で越前・若狭領国と加賀半国の大大名となって北ノ庄城(福井市)を居城とするのだ。
ところで彼はなぜ秀吉に一目置いたのだろうか。信長亡き後、長秀は大真面目に秀吉が織田家を再興してくれると思っていたという話がある。その証拠に、天正13年(1585年)、秀吉の天下がほぼ確定するや、「話が違うではないか」と抗議の意味で割腹して果て、自らの肉腫を抉り出し、遺書と共に秀吉へ送りつけたというが、事実とは考えにくい。
死の真相は江戸時代の随筆『甲子夜話(かっしやわ)』に詳しい。長秀の死にまつわる由緒書を読んだ筆者の平戸藩主・松浦静山(まつら・せいざん)によると、積虫(胎内にいるとされる想像上の虫)を患っていた長秀は「積虫に殺されてなるものか」と短刀を腹に刺し、その虫を取り出して死去したという。なお、虫の正体は回虫などの腸管寄生虫だとされている。つまり、長秀の死は抗議の自殺ではなかったことになる。
跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。