教科書には載っていない“本当の歴史”――歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!
織田家重臣の中で「豊臣兄弟」と最も関係の深い「米五郎左(こめごろうざ)」(米のように欠かせない武将という意味)こと丹羽五郎左衛門長秀(にわ・ごろうざえもん・ながひで)に注目したい。
木下藤吉郎秀吉が羽柴を称した際、丹羽長秀の「羽」と柴田勝家の「柴」から取ったというのは有名な話だ。大河ドラマの主役・秀長も当初は実名を長秀と称し、信長の「長」と秀吉の「秀」を拝領したと考えられ――丹羽長秀の場合の「秀」は信長の父信秀の「秀」――奇遇にも、この重臣と同じ実名をいただくことになる。
丹羽長秀は本能寺の変の際、四国遠征軍(大将は信長三男・信孝)の副将として渡航準備中で、織田家重臣の中で最も京に近い大坂周辺にいたが、秀吉のように博打覚悟で明智光秀の追討を仕かけず、慎重な対応に徹する。まず、同じ遠征軍内にいた津田信澄(光秀の娘婿)の陣所を襲って討ち、備中から大返してきた秀吉軍へ、信孝を奉じて合流する。
このときすでに、信長亡き後に織田家を主導できる人材として秀吉に一目置いていたのだろう。秀吉が山崎の合戦で光秀を討ち、織田家の次の跡目を決める清洲会議の主導権争いで柴田勝家派と秀吉派に二分される中、長秀は秀吉へ組するのだ。その際、秀長が重大な役目を果たす。