教科書には載っていない“本当の歴史”――歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!

 豊臣秀長の重臣・藤堂高虎(とうどう・たかとら)といえば、「築城の名人」にして「茶の湯や能に造詣深い文人武将」、そして「生涯に主君を7回替えた男」として知られる。特に最後のくだりがマイナスのイメージを抱かせがちだ。この誤解されやすい武将の意外な素顔に迫った。

 高虎は弘治2年(1556年)、北近江に生まれ、兄の死で藤堂家の家督を継いで浅井長政(あざい・ながまさ)に仕えたというのが通説。ところが、元亀3年(1572年)、その1人目の主君のもとを離れて、阿閉貞征(あつじ・さだゆき)、さらには磯野員昌(いその・かずまさ)と仕官先を転々とする。この2人は浅井長政の重臣で、いずれも織田信長へ寝返っている。

 3人目の主君は員昌だが、信長の甥・津田信澄(つだ・のぶずみ)を養子に迎えたため、高虎は信澄に仕えることになった。しかし、信澄が明智光秀らとともに丹波を攻めた際の恩賞への不満から、この4人目の主君のもとを去ったとされる。現代でいえば、自らを認めてくれる会社探しのために転職を繰り返すようなものだろう。結果として、これらのキャリアアップ戦略は成功する。

 まず1人目の長政は信長に滅ぼされ、2人目の貞征は本能寺の変で光秀に組して死去。員昌は織田家を出奔し、4人目の信澄も本能寺の変の際、光秀の娘婿だったために織田信孝(信長三男)らによって攻め滅ぼされる(前回参照)。そして天正4年(1576年)頃に、秀長を5人目の主君と仰ぐのだ。