■自らのキャリアを認める主君に出会えた
秀長には、彼が亡くなる天正19年(1591年)まで15年間仕える。秀長の死去後も養子の秀保を支え、彼が若くして亡くなると、高野山に入って出家しようとしたが、秀吉に慰留されたとされる。
転職続きの武将がこれほど長く大和大納言家(秀長の豊臣家)に仕えたのだから、ようやく自らのキャリアを認める主君に出会えたといったところだ。なお、高虎は秀長の養子(織田家重臣・丹羽長秀三男=前回参照)を自身の養子に迎えている。
秀吉を6人目の主君として、つまりは大名として独立した高虎は豊臣政権で徳川家康らと交流を深める。秀吉の死後は家康の信頼を勝ち取って、関ヶ原の合戦では西軍諸将を東軍(徳川方)へ寝返らせ、伊勢津藩の藩祖となる。
つまり、秀長に仕えて以降、“勝ち組”に乗り続けたわけだが、秀長の家臣時代には多くの武勇伝が残されている。
いくつか列挙すると、「三木城(兵庫県)の合戦で著名な敵将をわざわざ呼び止めて一騎打ちした」「賤ヶ岳の合戦(滋賀県)で傷を負いながらも前進して敵を蹴散らした」「四国の木津城(徳島県)の合戦で被弾した」などなど。これらが、ただ世渡りがうまいだけの武将でない事実を物語っている。
跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。