■「自らの足取りを広く及ぼす」

 ところで、天下という言葉を使ったのは信長が初めてではなかった。

 源頼朝が武士政権を鎌倉に開いた際、京の公卿・九条兼実が「天下草創」(『玉葉』)と表現している。むろん、頼朝が全国を統一したわけではなく、あくまで京の朝廷とは別の新政権を開創したという意味で使われている。天下というのは日本全土を指す言葉ではなかったのだ。

 一方、地理的な意味でいうと、天下の中心は、天皇のいる王城(京の都)である。そのことは、戦国時代に来日した宣教師のルイス・フロイスが「五畿内の君主となるものを天下の主君」(『イエズス会日本通信』)だと書いていることで裏付けられる。信長の時代の天下人はあくまで「畿内の国主」を指していたわけだ。畿内は当時の室町幕府の支配領域に重なり、国主は足利将軍ということになる。

 また、布武についても、中国の古典『礼記(らいき)』に「堂下に歩武(足取り)を布く」とあり、布武は必ずしも武力行使を意味せず、「自らの足取りを広く及ぼす」という意味に解釈されるようになった。つまり、「信長の天下布武=畿内の足利将軍家の天下を再興するために自らの力を及ぼす」という意味になる。

 事実、永禄11年(1568年)9月26日に信長が足利義昭を奉じて上洛し、その義昭が10月18日に15代将軍に就いた後、『信長公記』によると、24日に新将軍に暇乞いして28日には岐阜城に帰城している。兵糧不足を理由とする説もあるが、信長が新将軍を傀儡(かいらい)とし、自ら「畿内の国主」となるつもりなら、京に留まるはず。

 しかも、義昭との対決が決定的になった元亀4年(1573年)の時点でも「(義昭とは)君臣の間柄」「(実子を人質として)進上したい」とまで言っている。ところが、義昭は幕府奉公衆や一部の勢力に押され、信長の申し入れを突っぱねて京から追放される。

 信長が天下の領域を全土に広げようとするのはその後だと考えられる。

跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。