教科書には載っていない“本当の歴史”――歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!
日本を襲った未曽有の国難――2回にわたる蒙古襲来(1274年・81年)を退けた鎌倉幕府執権の北条時宗は、果断な政治手腕の反面、専制的で冷酷な評価がつきまとう。そんな男の意外な素顔に迫ってみた。
モンゴル皇帝クビライの国書が高麗(朝鮮)の使節の手を経て、大宰府(福岡市)に到来したのは文永5年(1268年)。その直後、北条宗家(得宗家という)を継いだ時宗がわずか18歳で執権に就き、彼が22歳になった文永9年、2月騒動と呼ばれる事件が勃発する。
2月11日の朝、得宗家の御内人(家臣)ら5名の軍勢が北条氏庶流の名越時章・教時兄弟を討ち取り、続いて15日、京の治安や朝廷の監視などを担う六波羅探題北方(長官)の赤橋義宗(北条氏庶流)が、時宗の庶兄である時輔(異母兄)を誅殺したのだ。
時輔は六波羅探題南方(副官)の地位にあり、得宗家出身者が南方となる例はなく、左遷の憂き目を味わっていた。