■事件の核心とは
では、この事件の核心はどこにあるのだろうか。幕府側の書状には名越兄弟を「謀叛あるの輩(ともがら)」としており、兄弟に謀叛の企みがあって幕府側、すなわち時宗が機先を制して討ち、それに同調する動きのあった庶兄を殺させたと理解できる。
しかし、得宗家に意趣を抱く教時はともあれ、時章は誤って殺されたとされ、彼を討った5人全員が、その日のうちに斬首させられているのである。
時章は弟の教時と違い、得宗家に従順な姿勢を示しており、討ち手側が実際に教時と誤って殺した可能性は残るが、時宗がこれを機に兄弟同時に葬り去ろうとした疑いは残る。
誤って殺したというのに、時章の守護職は時宗側近の安達泰盛らに与えられているからだ。時章を殺し、その討ち手を処罰すれば死人に口なし。もちろん、時宗の庶兄時輔が明確に叛意を抱いたという史料もない。つまり時宗は国難を前に、奸計(かんけい)を用いて反対派を粛正し、政権を安定させようと図ったと考えられる。
こうして後世の悪評を招いた時宗だが、2回目の蒙古襲来の直後、実弟の宗政が亡くなった際の彼の様子について「普段では考えられないほど、並々ならぬお嘆きでいらっしゃいました」と記した史料もある。本来は、このように肉親の情に厚い人柄だったことが分かる。
また、妻(覚山尼)との関係も良好で、彼女は夫の死後、その冥福を祈って仏典の中では最大級に長い「華厳経」を1年足らずで書写。時宗が帰依した禅僧の無学祖元(鎌倉・円覚寺を開山)が彼女を讃えつつ、時宗を「喜びや怒りの表情をお見せにならず、誇り高ぶり、才をひけらかすこともなさらない」と評している。
未曽有の国難に直面していなければ、政治家として別の顔を覗かせていた可能性もあっただろう。
※参考文献 川添昭二著『北条時宗』
跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。