■真の“史上最強打線”は巨人V9時のON砲
他方、力勝負が身上のパ・リーグは、1980年代に入って西武に黄金期が到来。
とりわけ、90年からは怒濤のリーグ5連覇、3年連続で日本一にも輝いた。
「92年には、秋山幸二&清原と“AKD砲”を形成したデストラーデが、両打ちでは史上初の3年連続本塁打王。“無冠の帝王”清原も、自身2度目となる最高出塁率に輝いています」(前出のスポーツジャーナリスト)
その王者・西武のライバルとして、毎年のように熾烈なV争いを繰り広げていたのが、伝統の「いてまえ打線」を受け継ぐ近鉄。
2001年には、ローズ&中村紀洋の2人で、驚異の100発&250打点超えを達成。球団最後の劇的リーグVに華を添えている。
「同年の梨田昌孝監督は、中村ら主力からの“いろいろ動かれると打ちにくい”との要望を受けて、機動力を封印。盗塁数は、04年巨人の25盗塁に匹敵する、35盗塁という少なさ。
ちなみに、チーム防御率リーグワーストで優勝したのは、この年の近鉄と、18・19年と連覇した“山賊打線”の西武だけ。01年の防御率4.98は、今もぶっちぎりのワースト」(前同)
また、打撃特化型の大味野球で“いてまえ”近鉄と双璧をなしたのが、「ビッグバン打線」の日本ハム。
現代野球のトレンドになっている、バントしない強打の2番打者をいち早く取り入れ、小笠原道大を2番に置いた。
ヤクルトから移籍後、01年に得点圏打率リーグトップの“打てる捕手”としてブレイクした野口寿浩氏も、そのあまりの大味さに当初は閉口したという。
「今のような詳細なデータは当然なく、対策は相手先発の前回登板のビデオを見るぐらい。バッテリーミーティングでも、スコアラーが示す対策は、どの打者に対しても、ひたすら“インハイ&アウトロー”でしたからね。野村IDが当たり前と思ってきた私には、逆に衝撃でしたよ(笑)」
むろん、片岡篤史や小笠原ら、無骨者ぞろいの打線に、犠打などの細かい芸当は必要ない。
相手のクセを見抜いてそれを生かす、といったことができたのも、主力では先の野口氏や奈良原浩、金子誠ぐらいだったという。
「一度、ガッツ(小笠原)に、ある投手のクセを“知りたいか”と聞いたら“クセが分かったらボール球まで振っちゃうから、いらないです”って。試合中も細かいサインプレーは、ほとんどなかった気がします」
チーム本塁打シーズン200発を初めて突破したのは、山本浩二、衣笠祥雄らを擁する「赤ヘル軍団」に、高橋慶彦が加わった78年の広島。
その翌年、75年に続く2度目のリーグVを成し遂げた「赤ヘル」は、悲願の日本一にもなっている。
「“投手王国”だった広島が、チーム長打率4割8分という破壊力を手に入れた。
当時の広島市民球場は両翼89メートルと打者有利で、なおかつファンも熱狂的。それだけに“広島相手には投げたくない”と、他球団の投手陣からは半ば本気で敬遠されていたと聞きます」(スポーツジャーナリスト)
最後に、「史上最強打線」の名づけ親でもあるミスターの現役時代、V9当時の巨人は、どうだったか。
そこまで“打”のイメージは強くないが、9年間のうち、67~69年、72~73年の5シーズンは、チーム打率&本塁打ともリーグトップと、さすがの貫禄。
とりわけ68年からの4シーズンは、打撃3部門を長嶋&王貞治の“ON”で独占するという、絶対王者ぶりをも見せつけた。
「68年から3年連続で首位打者を獲得した王さんは、“長嶋さんに勝ってなれたことが、何よりの自信になった”と語っている。
一方のミスターも、71年には首位打者を奪還。高次元で切磋琢磨するONの時代こそ、真の“史上最強”と言えるかもしれません」(元スポーツ紙巨人担当記者)
何を置いても、本塁打こそが野球の華。息詰まる投手戦もいいが、ド派手な空中戦も、やはり見たい。
井川慶(いがわ・けい)
1979年、茨城県生まれ。水戸商業高校から98年にドラフト2位で阪神タイガース入団し、2003年には20勝を挙げてチームのリーグ優勝に大きく貢献。最多勝・最優秀防御率・最高勝率に加え、MVP、沢村賞、ベストナイン、最優秀投手と主要タイトルを総なめにし、04年10月4日の広島戦では史上71人目となるノーヒットノーランを達成。NPB通算219試合に登板し、93勝72敗1S、防御率3.21の成績を残し、07年にはMLBニューヨーク・ヤンキースへ移籍。帰国後はオリックス・バファローズに加わり、再びNPBのマウンドで活躍した。
野口寿浩(のぐち・としひろ)
1971年生まれ、千葉県出身。習志野高時代に高校通算11本塁打を記録し、89年オフにドラフト外でヤクルトスワローズに入団。98年に日本ハムファイターズへ交換トレードで移籍し、監督推薦でオールスターに初選出。99年には正捕手として130試合に出場。翌年には最高打率.298を残し、得点圏打率もリーグトップで、「ビッグバン打線の恐怖の8番」と恐れられた。捕手としても盗塁阻止率.423を記録し、二度目のオールスターゲーム出場。03年にはトレードで阪神タイガースに移籍し、翌年10月4日の広島戦では井川慶とバッテリーを組んでノーヒットノーランを達成した。08年には再取得したFA権を行使し、横浜ベイスターズへ移籍。引退後は、17年にヤクルト2軍バッテリーコーチ、18年は1軍バッテリーコーチを務めた。