教科書には載っていない“本当の歴史”――歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!
我が子を将軍職につけようと、応仁の乱(1467~77年)を引き起こした――かつて悪女のイメージを一身に背負った日野富子(ひの・とみこ)の実像が見直されつつある一方、その兄・日野勝光(ひの・かつみつ)の評判は相変わらずだ。
戦乱による庶民の疲弊をよそに蓄財に励み、彼が文明8年(1476年)、内大臣(内府)を経て左大臣にまで上り詰めた直後に没した際には毒殺説が流れ、世評は「神罰があたったのだ」とまで酷評した。押しが強い性格のためか、「押大臣(おしのおとど)」ともあだ名される。
日野家は彼の祖父の代に没落し、その再興を図るため、八代将軍足利義政の正室・富子の産んだ嫡男(義尚)を後嗣に立てるべく画策。奈良興福寺の僧が書いた『大乗院寺社雑事記』(以下『雑事記』)によると、その義尚が第九代将軍となるや、勝光は「新将軍代」と称したという。新将軍・義尚の代行という意味だとしたら、彼は鎌倉幕府でいう執権、室町幕府における管領になったようなもの。
日野家は大納言にまで昇進できる家柄(勝光は異例の出世)で、上級貴族と呼んでもいい立場ながら、勝光は幕府の重臣でも何でもない。これまでにも幕政に関与した公卿はいたが、本当に勝光が事実上の管領として幕政を動かしていたとしたら尋常ではない。
その真相を探っていこう。