■幕政の表舞台に駆り出された!?
文明5年、義尚に将軍を譲った義政は隠居したものの、義尚が15歳になるまで、勝光がその職務を一部代行し、新将軍を指南することになったという(『雑事記』)。そのため、「(幕府の)奉行・頭人以下ことごとく皆、内府(勝光)在所(邸)」(『雑事記』)に集まり、彼が「天下諸成敗」(同)にあたった。
当時の室町幕府の政治は「御前沙汰」と呼ばれる体制で行われ、管領らが出席して将軍臨席のもとで重要案件を決定していた。その後、将軍が隣席しないケースも増え、勝光はいわば、その「御前沙汰」を自らの邸内で行い、決定事項に基づいて奉行らに指示していたのだ。
その内容を吟味すると、幕政は政所(幕府の政務機関)と分担して執り行っていたようだが、それでも「新将軍代」が誇張した表現でなかったことが分かる。
では、なぜ勝光が管領に代わって「御前沙汰」を仕切ることになったのだろうか。
その頃、管領の細川勝元が死去し、まだ、その嫡男・政元は若輩の身で、他の管領家である斯波・畠山両氏は、自らの家督争いのために合戦に明け暮れていた。つまり、とても幕府の政務どころでなかったのだ。勝光に政治的な野心があったことは否めないが、ある意味、「御台所富子の兄」で「新将軍の伯父」という立場ゆえ、幕政の表舞台に駆り出された面があったのかもしれない。
跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。