■道誉の讒言で歴史が動いた!?

 しかし、『太平記』などには、彼は「バサラ者」であるだけではなく、毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人物として描かれている。

 当時は有力守護大名同士の対立が激しく、道誉は幕府の執事(後の管領)である高師直(こうの・もろなお)や管領・細川氏清(ほそかわ・きようじ)、さらには幕府重鎮の斯波高経(しば・たかつね)と対立。

 このうち、師直は観応の擾乱で直義方に葬り去られるが、氏清と高経の失脚は、道誉の讒言(ざんげん)によるといわれている。

 氏清との関係では、道誉の婿・斯波氏頼(しば・うじより)との守護職を巡る対立が讒言の背景にあった。

 まず清氏がわが子の元服に際し、石清水八幡宮で八幡の名を与えたことが問題とされた。平安時代の武将・源義家が八幡太郎と称したように八幡は源氏の棟梁の名であり、二代将軍・義詮はこれを僭上行為と見たのだ。

 さらに九州探題・今川了俊著の『難太平記』は道誉の名こそ記載していないが、それと分かる表現で彼の讒言が理由で氏清が失脚したとしている。

 一方、道誉は空席になった管領に婿の氏頼を押したが、その弟で四男の義将を寵愛する高経は義詮にゴリ押しして四男を管領の座にすえ、自ら後見した。

 そこで貞治五年(1366年)、道誉がまたしても義詮に讒言したため、高経・義将父子も失脚し、分国の越前へと逃れたとされる。

 幕府の重鎮を相次いで貶めるあたり、道誉はまさに「人目を驚かせる」バサラぶりを発揮しているわけだが、その高経が失脚する直前の貞治五年三月四日のこと。

 彼が将軍の御所で花見の宴を主催し、道誉はその宴に出席すると言っておきながら、同じ日、京の郊外大原野で盛大な花見を催行。その華美な催しに、高経の花見の宴はかすんでしまったという。

 道誉は、この七年後の応安六年(1373年)、本拠にしていた近江国甲良荘(滋賀県甲良町)で死去したとされるが、讒言魔としての一面もまた、彼のバサラな生涯を彩るものだったのかもしれない。

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跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。