■貞勝の独断か

 朝廷側の史料からもその交流のほどがうかがえ、本能寺の変が起きる天正10年には、彼が「三職推任問題」と呼ばれる重大案件に関係していることが勧修寺晴豊(かじゅうじ・はるとよ / はれとよ)(武家伝奏)の日記で判明している。

 4月25日に晴豊が京の村井邸を訪ね、「(朝廷が)安土へ女房衆を下して(信長に)太政大臣・関白・将軍のいずれかの官職を与えることを伝える」と言ってきた。信長は4年前に官位を辞して当時は無位無官。そこで後日、「(三職のうち)将軍になるのがよろしかろう」と晴豊は自分の考えを述べている。

 その一方、史料の読み方の問題だが、この話の主語が逆転し、貞勝が朝廷に三職のいずれかを賜るように働きかけたと解釈する説もある。

 この場合、信長の命を受けて貞勝が三職推任を言いだしたと理解されているものの、5月4日、安土にその三職推任の勅使を迎えた際、「いかなる御勅使であるのか」と信長側は訳が分からず驚いた反応をみせている。

 信長が貞勝に命じていたなら、三文芝居でも演じていない限り、極めて不自然な反応だ。そこで次のように理解する説も成り立つ。

 信長に官職を与えて取り込みたいという朝廷、これに消極的な信長との間で板挟みになった貞勝が双方の意向を踏まえて調整にあたり、朝廷へ三職推任を提案。

 これによって朝廷は公式に推任の意向を示すことができ、信長が辞退しても、武家伝奏の晴豊としては一定のメンツを保てる。

 逆にいうと、貞勝にはそんな勝手なことをしても、信長は決して自分を処罰しないという自信があったことになる。

 貞勝は本能寺の変の際、自邸にいて逃げるという選択肢もあったが、あえて本能寺近くの二条御所に立てこもり、討ち死にする。まぎれもない信長の忠臣であった。

跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。