■キリシタンに救いを求める

 その後、秀吉によって許され、忠興が大坂城下の玉造口に邸をたまわると、彼女もそこに住むことになる。そして、天正15年(1587年)、その嫉妬深さゆえ、「帰るまでは決して外出せざるやう」(『イエズス会日本年報』)と夫に釘を刺されていたお玉は、この九州遠征中にこっそり邸を抜け出し、天満にあった教会を訪ねるのだ。

 こうしてキリシタンに救いを求めた彼女だが、日本年報によると、忠興が帰宅後に些細な理由でキリシタンになった子供たちの乳母の耳と鼻を切って追い出したことなどもあって、一時、夫との離縁を考えたという。

 その一方で彼女は、残された明智家の者らの行く末を案じていた。ガラシャの三男・忠利(初代熊本藩主)が家臣に宛てた書状によると、母(ガラシャ)の従兄弟にあたる明石源七郎(明石は明智の誤記か?)を「つねづねかわいがっていた」ので細川家に召し抱えたいとある。関ヶ原の合戦以降の書状だからガラシャは他界しているが、ここで重要なのは、忠利が母の願いをいれて、その従兄弟を召し抱えたいと言っているところ。

 また、ガラシャの甥にあたる三宅藤兵衛がまだ幼名の「そつ〈師〉」と呼ばれていたときに宛てた手紙が残っており、そこでは「かね五十め」を渡すので「ご勝手に(お好きなように)お使いなさい」と小遣いを渡していることが分かっている。この藤兵衛ものちに細川家に仕官する。

 謀反人である父の血筋の者を細川家に仕官させるには夫の協力が不可欠。彼女が夫の束縛に耐えた一因が、そこにあったのではなかろうか。

※参考文献 日向志保著『明智家に対するガラシャの認識』(『日本歴史』2026年3月号)

跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。