教科書には載っていない“本当の歴史”──歴史研究家・跡部蛮が一級史料をもとに、日本人の9割が知らない偉人たちの裏の顔を明かす!
薩摩の島津久光と西郷隆盛との関係は次の逸話で語られることが多い。
文久二年(1862年)春、久光が隆盛を奄美大島から鹿児島へ呼び戻した直後のこと。当時、久光は上洛を企図し、先代の島津斉彬(久光の異母兄)の下で江戸と京を周旋した隆盛の人脈に期待していた。
ところが面談の席上、隆盛は久光に面と向かって「地五郎(田舎者)だから、とても斉彬公のようにはいかない」と痛罵し、上洛に反対した。兵を率いた上洛は、かつて斉彬が成し遂げようとして果たせなかったこと。その一方、久光は「国父」といわれながら、実際の藩主は息子の茂久(もちひさ)で、無位無官。斉彬を敬愛する隆盛は、そんな田舎者が上洛したら、公卿(くげ)らに笑われるだけだという思いがあったのかもしれないが、主君筋への発言としては無礼極まるもの。よって、隆盛が久光の怒りを買い、沖永良部島へ流されたという文脈でとらえられることが多い。
しかし、まず隆盛の「地五郎発言」が微妙に事実と食い違っている。この発言は、明治維新後、『史談会速記録』(幕末から明治にかけての歴史的証言を速記した記録)に掲載されており、元薩摩藩士の市来四郎(いちき・しろう)が語ったものだ。その内容からは、隆盛が久光と面談した際に初めて口にしたのではなく、その前日に久光側近の藩士と会った際、彼らに向けての発言だったと読み取れる。