■なぜ隆盛は島流しにされたのか
その隆盛の「地五郎発言」の内容は、あらかた側近らを通じて久光の耳に達していたらしく、面談当日、隆盛は「暴言を吐いてしまいました」と自らの非を認め、久光が「話のあらましは聞いているが、大要を聞きたい」と言ったので、隆盛があらためて伝えたという流れになる。
つまり、隆盛が事実上の藩主を面と向かって痛罵したわけではなく、その非を認めた隆盛と久光との関係が修復できているようにも見える。久光は通説でいうような感情を隆盛に抱いていなかったのではなかろうか。それでは、なぜ隆盛は島流しにされたのか。
当時、久光の上洛に合わせ、有馬新七(ありま・しんしち)ら薩摩藩の攘夷派が伏見の船宿・寺田屋に集まり、穏健派の関白九条尚忠(くじょう・ひさただ)らの要人襲撃、さらには朝廷に攘夷断行を迫ることなどを計画していた。
一方、久光は浪士鎮撫(ちんぶ)のため、隆盛を先発させ、下関で待機させることにした。ところが、隆盛は新七らの不穏な動きを知ると、久光の命令を無視して伏見へ急行する。その理由は彼らの動きを抑えようとしたからだとされるが、久光は逆に彼らと結託した動きと見たようだ。
そこからは、隆盛を信用できていない久光の腹の内が透けて見える。だとすると、例の「地五郎発言」が彼の心にずっと突き刺さっていたともいえそうだが……。
跡部蛮(あとべ・ばん)
歴史研究家・博士(文学)。1960年大阪市生まれ。立命館大学卒。佛教大学大学院文学研究科(日本史学専攻)博士後期課程修了。著書多数。近著は『今さら誰にも聞けない 天皇のソボクな疑問』(ビジネス社)。